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最後の会話

最近、年のせいか物忘れがひどく危機感をかなり持っているのですが、
何年経っても、鮮明に覚えている事があります。

平成13年7月31日9時51分
私の親父が75年の人生の幕を閉じた日です。

この年の3月末に自宅で倒れ、ココ母と共に救急車で病院へ、肺炎でした。
その日の夜には重篤な状況になり、一時は危なかったのですが、
何とか持ち直し快方に向かってる矢先、その頃から痴呆の症状が出始め、
知識を持ち合わせていない私達には、受け止め難くそれでも必死に看病をしていました。
苦しい日々を送る中、病院に対し不信感を持つ事柄が増えていき、
肺炎の方は良くなっていたので、5月中旬に退院して自宅で介護する事にしました。

入院している時に要介護3の認定を受けていたので、
ケアマネージャの方とよく話し合い、準備をしていたつもりだったのですが、
現実は甘くはありませんでした。
食事を拒絶していたので、このままでは大変な事になってしまうとココ母と話をしていた時に
親父が苦しみだしたので、2度目の救急車で昭和大学に入院する事に。

ICUに入り、先生からの説明を受けると、ほぼ多臓器不全の状態でした。
覚悟を決めていたのですが、先生達と6Aの看護士さん達のおかげで、
リハビリを始めるところまでよくなりました。
痴呆の症状もなくなり、私達も希望を持ち始めてきたのですが、
入院を続けるうちに又、痴呆の症状が出てきました。

ただ大変救われたのが前の病院と違い、
患者のケアと共に家族の心のケアをして頂けたのには、今でも大変感謝しています。
母と姉そして、ココ母と4人で看病をしていたのに、どうしても壁にぶつかる事が多く、
多分思いつめた顔をしていたのでしょう。
看護士さん達はそんな私達に声を掛け、いつもフォローをして下さいました。

そんな日々の中、7月の初旬に親父は脳梗塞を起こしました。
いろんな検査の結果、先生から残念ながら・・・と言う説明を受け、
親父をはさんで絶望的な話をしていたところ、看護士さんから怒られました。
『お父さんにはこの会話が聞こえていますよ!』
ただ、脳死判定みたいな説明を先生から受けていたので、
耳が聞こえる訳が無いんじゃないかと思いつつ、すいませんと看護士さんに謝りました。

今ではさせてくれないと思いますが、6Aでは24時間親父に付き添うのを許可してくれました。
朝6時から午後2時までココ母、それから夜7時まで母と姉、
夜中は私という状況が1週間続いたある日、親父の意識が戻りました。
先生は奇跡的でありえないと驚いていましたが、私達は本当に嬉しかったです。
親父が開口1番言った言葉が、『おまえ達大丈夫か?』でした。
意識が戻った安堵の気持ちと親として子供をいたわる言葉に泣けてしまいました。

ただ、意識を取り戻したのは1日だけで、また昏睡状態になってしまいました。
あとから、聞いた話なのですが、先生と看護士さん達に親父は『有難う御座いました。』
と言っていたそうです。
懸命に治療と看護をして頂いていたので、最後にお礼を言いたかったのだと思います。

意識はなかったのですが、安定はしていたので仕事を再開しようとしたその日の朝、
病院から電話が入りました。
すぐに駆けつけ、親父の状態を見たところ、時間の問題だと思いました。
ただ、耳は聞こえていると思い声を掛け続けましたが、心電図がフラットになってしまい、
その時つい、子供の頃言っていた『とーちゃん』と叫んでしまったら、
心電図のラインが40まで上がり、そして静かに親父の人生が終わりました・・・。、

これが親父との『最後の会話』です。

霊安室に移され、寝台車が到着した時に、
先生と多数の看護士さん達がお見送りに来て下さいました。
一人ずつ焼香をして頂いている時に堪えられなくなり、
涙があふれだしてきて、嗚咽をもらしてしまい言葉にならない中、
先生と看護士さん達にお礼を言い、親とを自宅に帰りました。

私は昔から一人よがりなところがあり、
人に感謝するとか有難いと思った事がほとんどありません。
ただ、親父の死を経験してみて、本当に心の底からいろんな方に感謝しました。
これが、最後に親父が伝えてくれた大事な事だと思います。

病院の先生と看護士さん達、ケアマネとその関係者の方々、HPで励ましてくれた友達、
散歩で知り合ったわんこ友達、今では会う事も少なくなりましたが有難う御座いました。

ココには留守番をさせる日々が多く、可哀想な思いをさせました。
不思議な事にこの期間発作を起こさず、
お葬式の時には私達の涙を舐めて慰めてくれ、
本当にやさしい子でした。

もあ・さらの親として先に逝く訳にいかないから。
2人をちゃんと育て、うちの子で良かったと思われる様にならなくてはいけないので、
当たり前ですけれど、責任の重さを痛感します。

そして、怪我をして松葉つえをつきながらも、
献身的に看病をしてくれたココ母。

運命だから分からないけれど、できたら人生を終わらせる順番を、
自分より少しだけ早くして、そして安心して旅立って欲しい。
反応がなくなっても声を掛け続けるから。

そして『最後の会話』をしようね。








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コメント 2

sgr

 最後の言葉には、沢山の思いが詰まっていると思います。私の父と母は、健在ですが、以前父が死と迎え合わせを感じた時、母に感謝の言葉と最後に「無念」と一言書いたラブレターを送っていたそうです。「何時の時代のラブレター?」と母は笑っていましたが、父はきっとその時、色々な思いから、選んだ一言がその言葉だったんだとおもいます。私も最後の言葉、会話のは、人生で最高の記憶のひとつになる様にと思っております。また、その会話は、今現在から、続いていいるのではないかなぁと思っております。そして、メタルの易しさ、強さに助けられた時、何者でもない位の感謝に溢れますよね。  
by sgr (2009-07-31 23:52) 

ココ母

sgr さん、おはようございます。
親父は生前、お前は長男だから、あとの事は頼むぞとよく言っていました。
半分納得しながらも半分理不尽さを感じていましたが、
親父の人生を振り返ると長男として大変苦労してきたので、
自分も最大限の事はまっとうしようと思います。

以前、sgr さんからお父さんの話を聞いた時、
とても責任感が強く素晴らしい方だなと感じました。
私は今まで死と直面するような事は無かったのですが、
お父さんのその時の心中を察するととても共鳴できます。
そして、とても尊敬できる方だなと思います。

そう、『最後の会話』はその一言だけじゃないのですよね。
その相手との全ての思い出と共に締めくくる言葉なんですよね。
私も日々の『会話』を大切に続けながら、
感謝し感謝される様に生きていこうと思います。
by ココ母 (2009-08-02 05:41) 

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