SSブログ

32年目のゴール ・・・おはし・・・ [走る]

とうとう、14日のロードレースまで1週間を切りました。
膝の故障も思わしくなく、それでも練習を続けている私に、たくさんの方が、今回は見送って
良くなってから参加すればいいじゃないかと、おっしゃってくれました。
心配して下さって本当に有難いと思いますが、何があっても14日は走るつもりでいます。
しかし、お気持ちを無視するような事になるのが心苦しいので、
何故、無理をするのか理由をお話します。

私は5歳以前の記憶が全くありません。
あまりにも昔の事なので、それも当然だと思っていたのですが、
ココ母を始めいろんな人に尋ねると結構皆さん記憶があるので、
何故、自分には記憶がないのかと謎の一つだったんです・・・
そこでひょっとしたら、この出来事が影響しているのかと考えるようになりました。

私の記憶の一番最初は5歳の幼稚園での出来事です。
お昼の時間になり、各自お弁当をひろげた時、私のお弁当に『おはし』がありませんでした。
今、思えば先生に言って、おはしを借りるとかすれば良かったのでしょうが、
それも出来ず、となりの友達のおはしを借りるのも悪いと思い、
借りる事も出来なかったので、私は止むを得ず、手でお弁当を食べていました。

その事に気付いた担任の女の先生がツカツカと寄って来て、いきなり烈火のごとく怒り出し、
私の首ねっこを捕まえて、黒板のところまで引きずっていき、
皆の前で、この子は手でお弁当を食べていると言い、
なんて汚い事をするのと私を責め立てました。
私は泣きじゃくりながら、ごめんなさい、ごめんなさい。と、繰り返していましたが、
先生の怒りは収まらず、泣いている私を引きずりながら他の全クラスを廻り、
皆の前で私をののしり責め立てました。
そこからは記憶が飛んでいて良く覚えていないのですが、
泣きじゃくりながら家に帰ったのだけを覚えています。

幼稚園でこういう事があったせいか分かりませんが、
小学生になった私は、いるかどうか分からない位、消極的な子供でした。
授業中は気配を消し、休み時間は友達もいなかったので、
うつむきながら、ひたすら時間が過ぎるのを待っているような毎日でした。
あの時代はイジメみたいなものはなかったので、そこは良かったのですが、
集団の中の孤独は子供心にもつらかったので、年の三分の一は学校を休みました。
今、思えば登校拒否児だったんですね。
ただ、症状も出ないのに休む訳にはいかないので、よく熱を出しました。
念じて熱をだすのだから、今思えばすごいなと思いますが、
よっぽど学校に行きたくなかったんだと思います。

そんな小学校生活が、5年生の時に激変しました。
担任の先生が私があまりにも消極的すぎたので、これはいかんと思い、
私を学芸会の主役に指名したのです。
消えていなくなりたいと思ったのですが、それも許されずひたすら練習を積み重ねました。
そして学芸会当日、舞台に立ちスポットライトを浴び最初のセリフを口にした時、
私の中で何かが弾けました。
頑なに心を閉ざして気配を消して生きてきた5年間、
その中でも心の奥底で『私はここにいるんだ!生きているんだ!』という叫びがあったんだと思います。
この出来事があってから、しだいに人としゃべれるようになり、友達も出来てきました。
遅ればせながら、小学1年生からのやり直しです。
そして、小学校を卒業し、私は中学校に進学しました。

・・・続く・・・

32年目のゴール ・・・自信・・・ [走る]

小学5年生で、やっと自分を表現する術を知った私は、
中学に上がってからいろんな友達が出来るようになりました。
ところが、対人関係を作り上げるのがあまりにも未熟だったので、人とぶつかるようになり、
自我を主張しまくっていた私は、クラスのリーダーと争い、結果負けてクラス中の全員からシカトされました。
1年生の1学期はそんな状態が続き、夏休みというインターバルのおかげで助かったのですが、
2学期は逆転し今度は私がリーダーとなり、元リーダーを逆にシカトしました。
そんな不毛な争いの果てに、ある日、殴り合いのケンカになり、2人して2階の窓から転落しました。
どちらも大きな怪我はしなかったのですが、不思議なものでそれから彼と仲良くなり、
3学期はいつもつるんで遊んでいました。

そうやって、他人とぶつかったり、理解しあったりの繰り返しを行いながら、
相手の立場に立って物事を考える事の大事さを学んでいきました。

話は変わりますが、私の5歳上の姉は学業が大変優秀で、
高校時代は3年間主席で国立の大学に進学しました。
親は姉と私を比較する事は絶対にしなかったのですが、
子供が子供らしく親に甘える事を一切受け付けなかった父でしたので、
正直、私は父親の愛情を感じませんでした。
母親もそんな父の顔色を伺って常にビクビクしており、
家族が集う食事の時は、母が緊張のあまり失敗をすると父が大声で怒鳴る。
そんな食卓だったので、美味しさを感じている余裕もなく、楽しい食事をした記憶はありません。
おまけに、学問が優秀だった家系の中で私はさえない子供だったので、
教育者の親戚達からは、姉はいい子で私はダメな子という構図が出来上がっていて、
そんな親戚を憎んだ事もありました。

私はそれでも、それなりに楽しい中学生活を送っていたのですが、自分にこれといったものがなく、
基本的には自分に自信がない子供だったと思います。
通っていた中学には、年に1回、学年、男女別に行うマラソン大会という催しがあり、
私は1、2年生の時には、これといった成績を残せませんでしたが、
中学生活の最後の思い出に、いい成績を残したいと思い立ち、
友達と冬休みの間、毎朝練習をしてマラソン大会に挑みました。
私の学年には中体連でも優秀な成績を残すようなすごい奴が1人いて、
ぶっちぎりで走って行ったのですが、私は2位集団に入り耐えに耐えた結果、
2位でゴールする事ができました。

担任の先生とクラス中の友達から褒められ、
家に帰って父に『お前はやればできる子なんだ』と言われた時、
生まれて初めて父に褒めてもらい、認めてもらえた気がして私は号泣しました。
父が自分の事を見てくれていた事を実感し、自分は家族の中で孤独だと思っていたのですが、
そんな事はなかったと思い、とても嬉しかった・・・

普通は、親の愛情を感じて実感するという事は、
意識をしなくとも、生を受けたその時から、無意識の内に心の中にあり、
孤独を感じる事もない意識の外で、大きな愛に包まれてるのだと思います。
私の場合は、父に褒められたその時が、自分が存在していていいんだと初めて思えた瞬間でした。
小学校の5年間、辛い毎日を過ごし、絶望しないで生きていて良かったと思いました。
そして私は、何をやっても出来ない子ではなく、
努力をしなかったから出来なかったんだ!やれば出来るんだと思い、
初めて、自分に『自信』が持てるようになりました。


・・・続く・・・

32年目のゴール ・・・棄権・・・ [走る]

高校に進学した私は迷う事なく、陸上部に入りました。
選んだのは中距離で、1500m走を主に練習を重ね、
練習はきつかったのですが、クラスの友達以外にも部の友達が出来、充実した毎日を過ごしていました。
2年に進級し、後輩達も入ってきて、楽しかった日々を思い出します。

秋の大会で私は5000m走に挑戦したのですが、大会直前に膝を痛めてしまい、
無理して走った結果、『棄権』をしてしまいました。
この大会には私の両親も見に来てくれたのですが、目の前で無様な様子を見せてしまい、
がっかりさせてしまったので、私は怪我を治して次の大会では満足のいく走りをし、
両親の前で完走するところを見せたいと思い、治療に専念しました。

そんな中、同じクラスの女子と交際する事になったのですが、そこで問題が発生しました。
彼女はテニス部に所属していて、とても有望な選手だったのですが、
テニス部は顧問の先生の考えで、男女交際禁止の部でした。
顧問の先生はクラスの担任でもあったので、交際はすぐ知れる事になり、
私は競技には影響のないようにするので、彼女を辞めさせないで欲しいと懇願したのですが、
元々、折り合いの悪かった先生と私は対立する事になり、意固地になった先生は、
自分の授業を4回すっ飛ばして、私を支持するか先生を支持するかという議論になり、
最終的には私が支持されたのですが、彼女はテニス部に居づらくなり退部しました。
陸上部は男女交際禁止の部ではなかったのですが、担任の先生が学校でも力があり、
それに遠慮した陸上部の顧問の先生は、私に3ヶ月の謹慎を伝えて来ました。

私と彼女はお互い、部活動に青春を掛けていたので、喪失感は拭えず、
しだいに2人の関係もうまくいかなくなり、別れてしまいました。
私は自分自身が情けなくなり、生活も荒れ、喪失感を埋める為に自暴自棄な行動を繰り返し、
人として情けない行動をとってしまいました。

3ヶ月の謹慎が解け陸上部に戻った私は以前の私ではなく、
警察の厄介になるような人間になっていました。
私の変貌ぶりに後輩達も距離を置くようになり、自分の居場所がなくなった様な気がし、
ますます荒れた結果、私は学校側に知れたら退学という事件を起こしてしまいました。
それが顧問の先生の耳に入り、もみ消してやるから、その代わり、陸上部を辞めてくれと言われ、
私は断腸の思いで退部し、自分に自信が持てた唯一の存在を失いました。

・・・続く・・・

32年目のゴール ・・・挑戦・・・ [走る]

幼稚園で心に深い傷を負い、傷が癒えないまま孤独に生きてきた小学校での5年間、
初めて自分の殻を破る事が出来た学芸会での主役、自分に自信が持て、親の愛情を感じたマラソン大会、
陸上競技に青春を燃やし、自らの心の弱さから招いた退部という事実。
私はどうしても現実から目をそむけたくて、心の中の深いところに陸上をやりたいという思いを封印しました。
そして、高校生活の残りをバンド活動に注ぎ、その頃知り合ったココ母と交際する事になり、
彼女は荒れていた私を支えてくれて、私の心も落ち着くようになってきました。
それからも、いろんな事がありましたが彼女と結婚し、ケンカをしつつも現在まで生きてきました。

昨年の正月にわんこ友達と飲んだ時、走りませんかと誘われたのですが、走る気にはなれませんでした。
その友達がレースに出るというので、応援しに行って沢山の人が走っているのを見た時、
心が少し動きました。
ただ、あまりにもブランクがあるので悩んでいたところ、ジムに行きませんかとお誘いを受け入会しました。
ジムに通うようになり、試しにマシーンで走ってみた所、少しは走れるかと思ったのですが、愕然とするくらい走れず、ブランクを感じました。
そこで、一から鍛え直し、段々走れる距離が増えて5000mが走れる様になったのですが、
どうしても速く走る事が出来なかったので、スピード練習をしている内に古傷の膝をやってしまいました。
膝の状態で走ったり走らなかったりの悶々とした日々でしたが、
なんとか完走はしたいと思い、レースに参加します。

痛みを押してまで今週のレースに参加しなくてもと言う声をもらったのですが、
実は今月の後半に母が手術の為、入院します。
白内障の手術なので心配はいらないのですが、何かあったらという不安感が少しあります。
なんでかと言うと私の祖母は入院していてベットから落ち、骨折をしました。
大した骨折では無かったのですが、手術をしなくてはいけなくなり、
その日を迎えた朝、脳内出血を起こし植物状態になりました。
一年後に亡くなったのですが、どうしてもその事が浮かんできてしまうのと、
結果的に私の最後のレースとなってしまったのが5000mで、
しかも両親の前で棄権をしてしまう結果になり、今回のレースで父はもういませんが、
母には完走の報告をしたいと思うのです。

もう一つの理由はココ母です。
結婚後、数年して私は独立したので、ものすごい苦労を彼女に経験させてしまったのですが、
そんな中でも私の事をずっと支え続けてくれました。
私の父が9年前に亡くなった時、彼女は看病を献身的にしてくれ、
その後、私が立ち直るまで励まし続けてくれたのですが、彼女は力尽きました。
今は大分良くなりましたが、重く辛い時期をさまよっていました。

その彼女が、私がレースで走りきり、32年目のゴールを見たいと言いました。
そして、現役の時の様な自分の思い通りの走りは出来ないかも知れないけど、
今の自分が出来る力でやり遂げられなかった事に再び『挑戦』し、32年目のゴールをした時に、
何を感じ、何を思ったかを聞きたいと。
苦労を掛け続け、辛い思いばかりさせてしまった私が、今出来る事は彼女の願い通り、
今度のレースで走りきり完走する事です。

そして、人生50年生きてきて、この数年、仕事の仲間が身体を悪くしたり、
心が折れたり、家族の事情でと、職場を去っていきました。
とても寂しいし残念です・・・
今のところ私は元気ですが、いつ去っていった仲間と同じになるか分かりません。
元気でいられる今だからこそ、出来る事はないかと考えた時、
断念した陸上競技が浮かんできました。
このタイミングだからこそ、走る気になったのかもしれません。
もう、陸上競技で私は後悔したくないし、現役の頃とは比較にならない走りでしょうが、
どんなにみっともなくても、あがいて走り抜きます。

走りきった後、自分の心に何が去来するのかは分かりません。
ただ、自分を信じて32年目のゴールに挑戦します。

32年目のゴール ・・・次へ・・・ [走る]

3月14日晴れ、いよいよ当日になりました。
私の走る5000m走はお昼頃なのですが、
わんこ友達がその前の10000m走に出走するので、うちを9時に出発し会場に向かいました。
会場には小学生からお年寄りまでいて、年齢層の幅を感じます。
10000m走を走るわんこ友達に会い、お互いに全力を尽くそうとエールを送り、
まず、彼らがスタートしました。私はまだ走れる限界が5000mなので、
すごいな~と感心しているうちに、先頭のランナーが戻ってき、続々と人々がゴールします。
程なくして、わんこ友達もゴールしたのですが、タイムが速い!!
正直、プレッシャーがかかります。

時間もいつしか過ぎて行き、とうとうスタートの12時20分を迎えました。
1.jpg

スタートは16歳から50歳までの181名、一斉にスタートです。
まずはグランド2周なのですが、みんな飛ばすので、私は巻き込まれないように自分のポジションを確保して走っていましたら、
2.jpg

ココ母が一言『遅い!!』
あのね~、前半飛ばすと潰れるから、これも完走する為の走りなんだからね!と
考えながら、グランドの外へ。
最初の1000mが5分弱、自分としては6分位かなと思っていたので、
一緒に走っている友達にイケてるかもと声をかけました。
ペースを上げながら走り、2500mの折り返し地点を回り残り半分です。
コースはけっこう坂が多いのできついのですが、ここまできたら走りきるしかありません。
残り1000mを切った段階で限界だったのですが、ココ母達が声を掛けてくれました。
3.jpg

声援を勇気にし、スパートです。
グラウンドに戻り、皆の掛け声の中、最後の直線を死ぬ気で走りました。
4.jpg

5.jpg

そしてゴール!! タイムは32年と24分03秒。
7.jpg

とても長い時間をかけましたが、やっとゴールできました。

走る前は、ゴールしたらいろんな思いが湧き上がり、号泣してしまうのかと思っていたのですが、
実際にレースに参加し走ってみると、起伏が激しいコースで、苦しくて何も考える余裕がなく、
ひたすら前へ前へ足を進めるのみでした。
実は実際に地面で走ったのは4回だけで、走る練習はジムのランニングマシーンだったので、
地面が動かないレースは予想以上にきつかったです。
しかし、そんな事も言ってられないので、
残りの距離が少なくなるにつれ、完走に対する執念と、1秒でも速くゴールしたく無心で走りました。
自分が現役の頃、大会で走る時はペース配分、同走者とのかけひき、そんな風に走ってきたので、
今回のように、息も上がってフォームもガタガタ、でも、死に物狂いで走ったのは初めてでした。

そして、ゴールして感じた事は、空が青く綺麗で、自分の身体にあたる風がすがすがしく、
とてもスッキリした気持ちでした。
何というか、達成感というか、ムチャクチャ気持ちが良くて浮かんだ言葉が『次へ』でした。
完走できただけでも嬉しく、予想をはるかに越えたタイムだっので、今回の結果に大満足だったのですが、
もっと練習をして、次はもっと速く走りたいと思いました。

5000mを32年と24分03秒を掛けて走りきり、落ち着いてから感じた事は『やればできる』です。
昨年、走る気になってから地道な練習を続けてきました。
あまりにも走れないので、完走なんて無理じゃないかと、思いましたが、
無念な気持ちを果たしたいが為、諦めないできました。
しかし、膝を故障した時は、もう駄目だと思い、気持ちが折れかかったところ、
ココ母が『今、出来る走りをすればいい』と言ってくれ、とても救われ、勇気がわきました。
今回の5000mは今現在ある、全力の力で走りぬきました。
諦めないで良かったですし、人間、『やればできる』もんだなと、人事みたいですが、本当にそう思います。
そしてこの事が成し得たのも、辛い事も楽しい事もあった人生を過ごしてきた中で、
その時代、瞬間には必ず私を支えてくれた人達がいました。
駅伝に例えるなら、支えてくれた人達の思いが『たすき』となって、次の時代に引き継がれ、
今日のこのゴールが実現したんだと思います。
そのおかげで私は生きてこれたし、これからも人生のゴールまで走り続ける事ができると思います。

この場を借りて、応援して下さった皆様、
今回のブログを読んで頂いただけでも有難いのに、コメントを入れてくださったり、
実際に頑張ってと声を掛けてもらったりした事が、私の心の中で『勇気』となり、走りきる事ができました。
ありがとうございました。

うちに戻り、母に完走したよと言いましたら、
『よく、頑張ったね。身体は大丈夫かい?』とねぎらってくれ、
母が元気な内に完走ができて良かったなと、しみじみ思いました。


そして一言、ココ母へ。

今まで、ありがとう。
今回はゴールしたけど、もう一つの人生のゴールがまだ俺達には残っているから、
その時が来るまで、2人で精一杯走り抜けような!!


***************************

ここで、重大な訂正とお詫びがございます。
実は2日前に気づいた事なんですが、
わたくしの最後のレース時の年齢は16歳で、現在が50歳。
という事は50-16=34なのですが、
ず~と50-16=32と思い込み、32年目のゴールと言いはっておりました。
わたくし、一応理数系なので、年はとっても加減乗除位は出来ると自負しておりましたが、
しか~し、引き算もできないのがこの度発覚し、このようなミスを犯してしまいました。
今、ものすごい危機感に襲われています。

ここで、訂正をさせて下さい。
50-16=34なので、32年目ではなく、『34年目のゴール』です。
お詫びして訂正させて頂きます。
誠に申し訳ありませんでした。

メダルの重さ(ココの気持ち) [走る]

ココ母の様子が変になってきたのが7年前の秋でした。
症状的には、いくら寝ても寝足りないというか、昼間も夜も一日中寝ているんです。
最初は主婦湿疹で処方されている薬の副作用で、起きていてもボーとしているのだと思っていました。
しかし、薬を止めても症状は改善されるどころかひどくなる一方で、
彼女は家事が段々出来なくなってきたんです。
私は無知だったばかりに、彼女の事をやる気のない奴と思ってしまい、怒ったり責めたりしました。

しかし、ある日の夕方家に帰ったら、真っ暗なリビングの中で彼女が表情のない顔をして、
座っている姿を見た時、これは尋常ではないと初めて気がついたんです。
そこで自分なりに色々調べて、彼女がうつ状態だと確信しました。
正直、うつ病という名前は知っていましたが、大した知識もなく、
単に、落ち込みの程度が、激しいバージョン位の認識だったのですが、
目の前にいる彼女は、そんな誤った認識が吹っ飛ぶ位の状態でした。

私は精神科に行こうと何度も勧めたのですが、彼女は病院にはどうしても行きません。
そして、何の手も打てないまま日々が過ぎて行きました。
そのうち、ココ母は不眠症になってしまい、ますますボロボロになっていったんです。
それでもココの散歩だけは、やめませんでした。ただ、人の言葉に敏感になっていたので、
散歩で人と会って話をして帰ってくると、ものすごく疲れてしまい、
ぐったり横たわって何も出来ず。
彼女はそんな自分に嫌気がさして、死にたいと口走る様になりました。

私の祖母は弟を自殺で失いました。私は小さい頃からそんな祖母の後悔と懺悔を聞かされていたので、自殺というのはその本人も残された遺族も、とても辛く悲しい事なんだと深く心に刻んでいたんです。
私はココ母がうつ病になったのは自分の責任だと思っていましたし、その上自殺させてしまったら、死んでも死にきれないと思いました。

それまで仕事の都合もあり、ココの散歩はココ母に任せていたのですが、
散歩に間に合うような仕事にシフトするようにし、極力一人で散歩させないようにしました。
ただ、それだけでうつ病が良くなる訳ではなく、精神状態は上がったり下がったりの繰り返しで、このまま、一生治らないのではないか?と私は思うようになってきたんです。

そんな中、義母が倒れ、家族で懸命に看病したのですが、一月後に亡くなりました。
ココ母と義母は姉妹のように仲が良かったので、もうダメだと思ったのですが、彼女は持ちこたえました。
しかし、持ちこたえはしましたが、良くなる訳ではなく、その2年後にココが亡くなった時は、完全にダメだと思いました。

義母のお葬式に来て下さったご住職に、ココのお葬式を取り仕切っていただきました。

その時ご住職が、
ココちゃんはお母様より先に亡くなるはずだったんですよ。

でもね、ココ母さんがお母様を亡くされた悲しみが少しでも癒えるまで、

ココちゃんは寿命を超えて頑張って生きたんですよ。

ココちゃんをほめてあげて下さい、

そして、気持ちに応えて上げて下さいと言われました。

・・・その言葉を聞いて私達は声をあげて泣きました。

ココが7歳で水頭症を発症した時、正直、長くは生きられないだろうと思っていたのですが、
ココは頑張って15歳近くまで生きてくれました。
ご住職のお話が真実なのかは分かりません。でも、晩年目が見えなくなり、片足が不自由になり、それでも、ココは懸命に生きていました。そして2.6キロあった体重が1.2キロになっても、最期の最期まで命の灯を燃やし続け、天寿を全うしたんです。

ココ母は自分がうつ病になったばっかりに、ココを不幸にしたと思っていたので、
ご住職の言葉が胸に深く刻み込まれ、「ココの気持ち」に応えられるようにうつを克服しようとしましたが、
やはり無理でした。

それからもあが、そしてさらが家族になりましたが、ココ母は一進一退の状態が続き、
私は半ば諦めの心境になってきていました。
落ちている時は自殺する元気もないので、上向きな時だけ注意すれば何とかなるみたいな惰性というか、慣れというか、
うつも生活の一部になってしまって、死ななければいいじゃんと思うようになっていた時、転機が訪れました。

・・・続く

メダルの重さ(肥満) [走る]

最初の転機はピアスでした。

私が友達からプレゼントを頂いたので、お返しにピアスを買いに行き、
ココ母もなんか買えばという事でイヤリングを購入しました。

ところが、ピアスに比べイヤリングの数があまりにも少なく、
おしゃれを楽しむのだったら、ピアスの穴を開けるしかないねと言いましたら、
しばらく彼女は悩みましたが、お医者さんに行って穴を開けてきました。

穴を開ける前に冗談で、穴を開けたら、1ヶ月に1個ピアスをプレゼントするよと、
私は約束していたので、毎月買いに行く羽目になりましたが、それが良かったんです。

元々、宝飾品には興味がないと言って、一切身につけなかった彼女ですが、
品々を見たり、身につけたり、お店の人と話したりする中で、ゆっくりですがココ母に表情が出てくる様になりました。

実はそのお店で知り合ったのがsgrです。自然な流れの中でsgrと私達はプライベートでも付き合うようになり、
お互いにいろんな話をして友達になっていきました。そして後に後輩のtnkも他のスタッフ共、
楽しいお付き合いをさせてもらう様になりました。

人と付き合うと、疲れてダメージが大きいココ母でしたが、私はあえて積極的に人と触れ合う様にしました。
逆効果になるかも知れないと危惧はありましたが、今回は今までと違い、ひょっとしたらというのがあり、
彼女は翻弄されていましたが、私は強引に人と会い続けました。

そんな中、第二の転機が訪れました。

今回、私達が走る湘南国際マラソンにわん友が出るというので、応援しに行った時の事です。
規模が大きい大会でビックリしましたが、様々な人が走りゴールをしているのを見て、
いろんな感情が湧いてきました。

車イスの人、視覚障がい者の人、臓器移植の人、いろんな人達が一生懸命走り、ゴールするのを見て、
自然に涙がこぼれてきました。
そしてわん友がゴールし、完走メダルを首から下げているのを見た時、
とっても輝いて見えました。それは彼だけではなく、走り終えた人々全ての人達が、私達から見てキラキラ見えたんです。

わん友自身、不本意な走りと言っていましたし、走り終えた人達も様々な感情があったと思いますが、
7年間輝きを失い、光を失っていた私達にはとっては、まぶしい光の洪水でした。
そして、私達が思った事は、あちら側の人間になって完走メダルを手にしたいという感情です。

ココ母自身、長い間うつ病で疲弊していたのは事実ですが、顔を上げ前を向くという事が出来ない日々でした。
でも、良くなりたい、普通の生活に戻りたいという気持ちはありましたが、行動をするという事が出来ず、
一生、こんな生活が続くのかなといった状態でしたので、私はココ母の心に浮かんだ。
完走メダルを手にしたいという気持ちに懸けようと思いました。

願望だけでは結果は伴わないので、湘南国際マラソンの3か月後のレースに私は出場し、走り切りました。
そんな私の姿を見て、ココ母は自分自身もエントリーし練習を始めました。

しかし、現実は簡単ではありませんでした。
ココ母は運動とは縁がない生活でしたし、体力がまったくなかったんです。
そして、彼女自身耐えられなかったのが「肥満」でした。
うつにより動けなくなり、じっとしている生活が続く日々と、太りやすい年齢や体質とが重なり、
彼女は適正体重を軽く超えていました。

今年の秋から練習を始めたのですが、彼女はジムの鏡に写る自分の姿に嫌悪し、他の人達と比較してジムに行きたくないと言い始め、
それはそれは激しい感情でした。彼女は自分の姿が醜いとのろい、泣き、収拾がつかない状況になっていき、
私はなだめながらも、レースに出るのはもう無理かなと思いました。

・・・続く

メダルの重さ(頑張れ!) [走る]

ココ母はジムに行くのを嫌がったのですが、
だましながらも何とか通えるようになったのは、tockoのおかげです。
私達が練習を再開するのと、tockoがジムに通うようになったのは同時期でした。
元々、私が彼女をジムに誘ったので、
tockoがジムに来るのにほったらかしは出来ないだろうと、
ココ母もジムに行くようになりました。

ココ母とtockoがレベル的に同じ位だったのも、いい結果をもたらしました。
お互いに競い合うというより、相手がこんなに頑張っているのだから自分も頑張ろうと、
互いの存在が励みになっていったんです。
そして、mymさんもジムに通うようになり、
女子3人がとってもいい関係になっていきました。

今年に入って、mykちゃんが参加、巨乳もジムに入り、一気に大所帯です。
ココ母もタイムは別にして、レースを完走できるレベルまでに仕上がりました。

正直、レースを直前に控え、思う事があります。

この7年間、私が一番恐れていたのは、ココ母が自殺する事でした。
彼女への言葉、態度は細心の注意を払いましたが、重く長い年月を過ごし、
私自身もダメになりかけた事がありました。
そんな私を救ってくれた人達がいたんですが、残念な事に今は付き合っていません。

ココ母が昨日ポツリと言いました。
もし、完走メダルが取れたら、彼女達に報告しに行こうよ。
あんたがあの時つぶれていたら、今の私達はない訳だし、
それを救ってくれた人達に感謝の気持ちを表すべきだと。

・・・私もそう思います。

あくまで、私の個人的な見解ですが、うつは日常、当たり前の事が出来なくなっていきます。
ただ、見た目は普通ですので他人から見たら、
なまけものとか精神的に弱い人と思われがちで、
その周囲の視線に耐えられなくなり、人と接するのが苦痛になります。

元気になりたくない人なんていません。
でも元気になろうとする気力が湧かないんです。
そして、気力が湧いたとしても体が動かない、言葉に表現できない、等々、
およそ健常な人には理解し難い病気なので、次第に孤立していきます。
そんな中でも、本人は普通の生活がしたい、それが出来たら他は望まないと思っています。
少し元気な時に無理をすると、うまくいかなかった事に対し、大きな反動がきて、
自己嫌悪になり、こんな思いをするのだったら、
死にたいとか死ぬまでひっそりしていたいと思います。

これが7年間、うつのココ母から学んだ事です。
でも、あえて私は、禁句をココ母に言いたいと思います。
レースを楽しんで走れとか、完走出来なくてもいいなんて言うつもりはありません。
プレッシャーになるのも分かっています。
でも、あえて言います。

頑張れ!

もし、完走できたとしても、うつが治ったとは思いませんし、反動がくるかもしれません。
でも、7年間2人でうつと闘ってきたのは、紛れもない事実です。
そして、そんな私達を心配し、救ってくれた人達の為にも、
完走したい気持ちをココ母は強く持っています。

その為に彼女は努力してきました。

本当に本当に頑張ってきました。

地味で辛い練習にも歯を食いしばって耐えてきました。

ココ母は気づいていないと思いますが、

この練習を通して彼女の中に「折れない心」が芽生えたんです。

ココ母が病院に行かなかった事は、医学的に見れば、間違った選択だったのかも知れません。
病院に行き早い治療を受ければ、7年もの間苦しまなかったかも知れませんが、
私はココ母の選択を尊重した事を後悔していません。

バカな夫婦と思われるでしょうが、7年の歳月を通して、
うつに限らず病気で苦しむ人の気持ち、家族の気持ち、夫婦とは何か?
といった事を自分達なりに学べたと思っています。

ココ母の意志、それは自分でうつを治してみせるといった無謀なものでした。
今、現在治っている訳ではありませんし、沢山の人のおかげがあって、
ここまで良くなってきたのは事実ですが、
よく、ここまで自分の力で戻ってきたと思います。

そして、今度のレースは私達夫婦にとって、
7年間の苦しかったうつへの決別のゴールにしたいと思って走ります。

今、ココ母は自分の力で立ち上がり、前を向き、スタート地点に立ちました。

1月23日、9時50分、号砲と共に彼女は最初の一歩を踏み出し、
湘南の風になりゴールを目指します。

メダルの重さ(誇り) [走る]

ココ母がパニック障害の発作を起こすとまずいので、早朝に出発しました。
近所の巨乳と連立って、新横浜でtocko達と待ち合わせをし、新幹線で小田原まで向かいます。
早朝のせいか楽々座れ、ちょっとした小旅行気分なんですが、ビールが飲めないのが残念。
小田原で東海道線に乗り換え、二宮駅で降り、バスで会場の大磯プリンスホテルに向かいました。
フルマラソンに出走する人達は、私達より1時間早いので、二宮駅からワンサカいます。
会場に到着すると、もう人の波で熱気にあふれていて、自然にテンションが上がりました。
ベースを確保し、準備をしているまに、他のレースの人達がスタートして行きます。
ココ母と私はアップしたりトイレに行ったり、そんな事をしているまに集合時間の9時30分になりました。
応援のみんなと固い握手をかわし、スタート地点に向かいます。

10キロを走る人は約5000人、周りを見渡すと人、人ばかりです。
開会式が終わり、アナウンスの人が盛り上げます。
なんか、とっても嬉しくなりました。

そして、9時50分号砲が鳴り、いよいよスタートです。
レースのルールとして、先頭がスタートしてからタイム計測になりますので、
自分達がスタート地点を過ぎるのが遅いと、その分ゴールが遅くなります。
11時30までにゴールしないと、失格になり、ココ母が欲しがっている完走メダルがもらえません。
やきもきしていましたが、先頭から遅れること約2分、スタート地点を通過する事が出来ました。
ココ母は外を走った事がなく、ジムのマシーンでの10キロのタイムが1時間13分でしたので、
これなら、いけると思い、オーバーペースにならないよう淡々と走ります。

途中、沿道の人達からの声援、ボランティアの方達から、ガンバレと声援を掛けてもらい、グッときました。
ココ母はいいペースで走っていましたら、急にお父さんと叫ぶので何事!と思いましたら、
義父が沿道におりました。精一杯手を振ってから前を向いて走ります。
そうこうしている内に折り返しになりましたので、時計をみると30数分。
これは完璧にいけると思い、携帯でみんなに電話です。
11時ちょい過ぎにはゴールできると連絡をし、待っててね~と電話を切りました。

残り4キロ位から、ココ母が苦しそうになってきましたが、彼女はけっして止まりません。
ずっと、励ましながら走りました。残り2キロ、かなりきつそうです。面白い事を言ってもシカトされました。
そしてラスト1キロ、沿道の人達の声援が力になります。
ゴール前に心臓破りの坂があるのですが、ココ母は歯を食いしばって走ります。
坂を上がったところで、tocko、myk達がいて声援を掛けてくれました。
ゴール地点には巨乳、tmk達が精一杯声援してくれています。

ココ母はラストの直線、根性でスパートし、2人で並んでゴールしました。
1.jpg

時間は1時間4分28秒。予想を大幅に上回るタイムです。
そして、ココ母念願のメダルを係りの人が首にかけてくれました。
彼女は誇らしげに、何度もメダルに触っていました。
2.jpg


ゴール地点にはみんなが集まっていて、ハイタッチです。
ココ母は嬉しそうなとてもいい顔をしていて、輝いていました。
私は一刻も早くビールが飲みたかったのですが、ココ母が記念グッズを買い物していたのでお預けです。
やっと、買い物も終わりみんなで乾杯です。

みんなから、ねぎらいと称賛の言葉をもらってココ母は嬉しそうでした。
私はひたすら飲んだくれなければいけないので大変です。
楽しく談笑している内に、フルマラソンを走っているわん友の応援に行きました。
レース直前に腰を痛めてしまったので、どんな走りになるかなと心配していたのですが、
彼は走り切り見事にゴールしました。
ゴール後、話をしたら次回は一緒にフルを走ろうといわれましたが、?です。

帰りの電車の中、応援で疲れたんでしょうね。
みんながコックリしているのを見て、せっかくの休みに私達の為に時間を費やしてくれて、
ありがたい気持ちで胸が熱くなりました。

うちに戻って、速攻でもあ・さらの散歩をし、
ダッシュでダイナーに行き、打ち上げをしました。
お店の方達からも拍手をしてもらい、いいお酒が飲めました。

今回、ココ母が10キロに挑戦する事に、たくさんの方に応援して頂きました。
ショコラままとkaitoからは、祈りの込められた手作りのミサンガ、
るぱん家からはパワーリストバンド、両方手首に着けて走りました。
当日、応援に行けないからとsgr、tnk、mykちゃんから応援のメール。
病気になって来れなくなったmymさんから、頑張ってメール。
クラブのおねえさん達から、完走を願ってますメール。
そして、今月決算の書類が間に合わないのを、休みを返上して代わりに作って下さったホーリー。

・・・ココ母は幸福もんです。

私達にとっては7年の歳月は長く、そしてレースは大きな挑戦でした。
しかし、私達の事を自分の家族のように心配し、応援して下さった皆さん方に、
心の底から感謝をし、人ってあったかいなとあらためて感じます。

うつ病を抱えていると人と積極的に関わりたいと思いません。
それどころか、ほっといてほしいと思うのもしばしばです。
私達夫婦はそんなでした。しかし、この2年間意識的に人と関わるようにしてきて、
いろんな事がありましたが、みなさんから人の思い、そして勇気を頂きました。

みなさん、たくさんの応援、ありがとうございました。
ココ母はみなさんのおかげで、立派にゴールする事ができ、
これからの人生に希望をもつ事ができたと思います。
本当にありがとうございました。


最後にココ母へ、

7年間の歳月を通して、多くの事を学んできました。
これは、あなたがうつにならなければ、分からなかった事です。
人の立場にたって物を考えるという事、思いやりをもって人に接する事、
家族、友達の大切さ、全てが欠落していた私にとっては、結果的にあなたが身を挺する形で、
学び、身につける事が出来たんだと思います。

あなたが苦しんでいた7年間、そばにいる事しかできず。
何も出来ない自分が歯がゆくてジレンマに陥った事もありましたが、
あなたは苦しみのドン底から這い上がって来て、自分の2本の足で立ち、
前を向いて走りゴールしました。
折り返しを過ぎてから、あなたが苦しそうに走っていたのを見て、いつ止まるかと思いましたが、
最後まで走りぬきましたね。

陸上にはまぐれはありません。練習で走った距離、あがき、もがいた回数で必ず結果がでます。
あなたは自分自身の力で完走したんです。
それは、誇るべき事ですし、あなたが努力した末の結果なんです。

うつの7年間から昨日のゴールまで、全てを見てきて、

私はあなたを「誇り」に思います。

完治した訳ではありませんし、これから悪化するかもしれません。
でも、あなたなら又、必ず復活できます。
そんな人と、人生を共にする事が出来る自分は幸せだなと実感します。

よく頑張ったね。

お疲れ様でした。

そして、ありがとう。



ケツが割れる [走る]

わたくしは陸上競技が好きですが、苦手としている種目があります。
それは400m走です。

高校の時、大会で走った事はあるのですが、
最後の直線の100mで、足は上がらないわ、腕は振れないわ、
よだれや鼻汁が出てくるわで死ぬ思いをした事があります。
しかも、経験者の方は分かると思うのですが、
ゴールした後、「ケツが割れる」といった状態になるんです。

説明しにくいのですが、おしりのあたりがジーンとしてしまい、
しばらく動けないといった感じなんです。
元々は、中距離専門だったので、400mは専門外だったのですが、
その一回で懲りて二度と走りませんでした。

先週から、ジムで練習を再開したのですが、、
やはり、サボっていたツケは大きく、まっとうに走れませんでした。
これではヤバイと思ったので、とりあえず5000m走って、
あとはインターバルを取り入れる事にしました。

最初の内は200mダッシュの200mジョグにしてたのですが、
それを5000mやるとなると、200mが12本となり、
こまごまとしていて面倒くさくなったので、
400mダッシュの400mジョグに変更しました。
そうすると、6本やればいいので、ちょうどいいじゃんと思い、
その練習を始めました。

まず、ゆっくりめで5000m走り、
まず1本目の400mダッシュです。250mまでは良かったのですが、
しだいに苦しくなりラスト100mで重大な事を思い出しました。
400m走るとケツが割れるという事を・・・

マシーンで走っているので、立ち止まる事も出来ず。
ベルトの外側に足を置いたのですが、35年振りにケツが割れるのを実感致しました。
しかも、息が上がりまくっていたので、隣のおじさんが大丈夫か?といった顔をします。
そうなると悔しいので、残り5本を死ぬ気で走ったのですが、
全部終わった後、一種の無酸素状態になり、手足が震えてきてしまいました。

少し休んでから周囲に目をやったところ、先程のおじさん、きれいなおねえちゃん、
色っぽい奥様がわたくしを注視しているんです。
わたくしが顔を上げたので、その方々は慌てて視線をそらしたのですが、
よく考えてみれば、無理もないですよね。
だって、音楽を聴きながらとかTVを見ながらウォーキング又はジョギングが主流です。
そんな中で、ヒーヒー言いながらインターバルしている親父がいたら誰もが見ますよね。

しかし、大会まで間もないので練習メニューは変えられません。
てゆうか、もっと濃い内容にしていかなくてはならないので、
これからも、練習の度にケツが割れると思います。

今、あらためて考えたのですが、わたくしは何の為に辛い練習をしているのでしょう?
漠然としていて分からないので、ケツを割りながら考えていきたいと思います。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。